ゾウが踏んだら壊れた

私の私による私のための

次世代ゲーム機

手持ちのパッケージと互換のないハードなど!
ダウンロードで過去作品が購入できてプレイできるだけなのは互換とは言わんがな!という声にまぎれてゲームくらい一人でしこしこやりたいわぁ、っていうため息が割と身近なところから聞こえて来た。

「反社会的な異物」というレッテルを貼られ続けて来たゲームが「ソーシャル(社会的な)」を押し出す傾向になっている。興味深い。

プレイヤーが増えて『ゲーム』の定義が変わって来た。

わたくしの経験上の話ですけれども、SNS付属のソーシャルゲームも友達が少なくて遊びきれず、またゲームという細いつながりだけで新しい社会的関係を見いだすことなんて不可能であったし、第一、「飽きる」ことを阻止されるような設計の中で遊べって言われているような気がして窮屈ですし。携帯端末のゲームは体質的に向いてなかったし、唯一据え置き器の「ゲーム」が楽園だったのです。

現実をお休みしてちょっと遊びましょう、
ようしパパ世界救っちゃうぞ〜
って起動した先に。

ソーシャルプレイという現実が広がった。
ぬあああ!友達いねぇよ!見知らぬ人と一緒にプレイできるほど心が頑丈ではない!

『ゲーム』の定義が、本来のゲームに回帰していっている。

この先「ゲーム」がどこに向かうのか、よくわからんですね。